はじめに
映画『フェラーリ』を観てきたので忘れないうちに感想を残しておきます。
書いているうちに引っ込みつかなくなって、まさかの5,000字超えの記事になってしまいました。
それではどうぞ!
あらすじ
F1界の帝王と呼ばれた男の情熱と狂気を圧倒的熱量で描く、衝撃の実話。
1957年、夏。イタリアの自動車メーカー、フェラーリの創始者エンツオ・フェラーリは激動の渦中にいた。 業績不振で会社経営は危機に瀕し、1年前の息子ディーノの死により妻ラウラとの夫婦関係は破綻。
その一方で、愛するパートナー、リナ・ラルディとの間に生まれた息子ピエロを認知することは叶わない。
再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを走るロードレース“ミッレミリア”にすべてを賭けて挑むーー。
この作品、エンタメ映画ではなくヒューマンドラマです。
というわけで、フェラーリとロードレースという言葉の響きだけで観に行った私は予想外のストーリーに最初は拍子抜けしました。
評価はけっこう分かれそうですが、私は映画館で観られて大満足です。
感想 まだネタバレなし!
ではネタバレにならないところから感想を。
物語の舞台はフェラーリ社の本拠地イタリア。全編を通して少しノスタルジックなイタリアの景色を楽しめます。
そしてイタリア訛りの英語で進んでいくのですが、途中からどうしてイタリア語じゃないんだろうと思ってしまう始末。それほどまでにアメリカが舞台の映画とは雰囲気が違います。
そしてシンプルに役者の演技が素敵でした。
まずは主人公エンツォ・フェラーリを演じたアダム・ドライバー。
最初は全く誰かわからず、途中で気づきました。あれ?スターウォーズのカイロ・レンの人!?ってなってかなり動揺しました。
黒髪ロン毛のイメージだったのに、今回は白髪にして実年齢よりも20くらい上の人物を演じていたのです。スーツを着て歩いているだけで様になるのは流石です。哀愁漂う背中がとても印象的でした。
そしてペネロペ・クルスの演技がとても良かった。
あらすじにもあったように、共同経営している会社の経営不振と息子の死によって、エンツォとペネロペ・クルス演じるラウラの夫婦関係は破綻しています。序盤の口論のシーンなんて、フェラーリ社の社長でカリスマ性のある夫との言い合いで一歩も引かない。その凄みと肝の座り具合、そして見え隠れする狂気にひれ伏したくなりました。
また、出てくる人間たちがとても人間臭い。
実話ベースならではの描かれ方でした。あんまり心情が詳しく描かれないことで、逆に、どうしてこういう言動をするんだろうか、というそれぞれの人物の背景をいろいろ考えることができるのも良かったです。
経営不振の会社が再起をかけてロードレースに挑む話と言われると、なんとなくフェラーリ賛美で終わりそうな気もするけど、全然そんなことはありません。むしろエンツォとフェラーリ社にとってはどん底で激動の1年にスポットを当てた作品になっています。
この映画はフェラーリ社が再起に挑む物語ではなく、エンツォ・フェラーリを中心に夫婦、親子、フェラーリ社と関わる人々の物語でした。
物語の後半はミッレミリアを中心に話が進んでいきます。ミッレミリアはイタリアを縦断する過酷なロードレースのことです。
なにより、美しいイタリアの街並みや山道を赤いスポーツカーが走るシーンは爽快にして圧巻でした。うなりを上げるエンジン音、ギアを変える音、ドライバーの息づかいさえもスパイスになってロードレースのシーンを盛り上げます。
車が走る道の外で繰り広げられる愛憎渦巻く人間関係との対比がとても良かったです。
エンツォは元レーシングドライバー。物語の序盤でもひとり運転する様子がクローズアップされます。会社でも家庭でも、問題だらけで八方塞がりなエンツォが唯一この世のしがらみから解放されるのが車を走らせている瞬間である、というような感じがします。
街中を疾走するフェラーリの赤い車は、エンツォが理想とした美しい車をまさに体現しているシーンな気がして私はとても好きです。
熾烈を極めるロードレース。当然棄権者も出ます。その中でもフェラーリのドライバーたちは脱落せずにゴールに向けてひたすら進んでいきます。
映画では華やかなカーレースの光と影が見事に表現されています。
そのミッレミリアの結末についてはぜひスクリーンでご覧になっていただきたいと思います。
ここからネタバレ注意!
ここからはネタバレになるので、ネタバレを読みたくない方は飛ばしてください。
さて。物語を語るうえで外せないのが彗星の如く現れた若きドライバー、デ・ポルターゴの存在。
自信ありげにエンツォに近づく様子は怖いもの知らずのひょうひょうとした若者です。初めはエンツォにすげなく断られるも諦めない。サーキットに潜り込み、フェラーリのドライバーの座を射止めます。
いい男の隣には美しい女、そして美しいフェラーリ。デ・ポルターゴのキャラクター造形はまさにヒーロー、まさに男のロマンを詰め込んだキャラクターな感じがします。私は女ですが、なんとなく男の人は一度は憧れるんじゃないかなと思ったりしました。
そして、デ・ポルターゴもミッレミリアに挑むことになります。公道を走るレースはとても危険。今のレーシングカーとは違って当時の車には屋根もないし、ヘルメットも被っていません。車はまさに走る凶器。ドライバーたちは文字通り命がけで車を駆っていたのです。
それを象徴するのがミッレミリアに挑む前にドライバーたちが大切な人に向けて遺書を書くシーンでした。
出てきた小道具はきっちり回収されなければなりません。物語の鉄則です。
みなプロのドライバー。レースのときも誰も自分が死ぬとは微塵も思っていません。目指すのは優勝のみ。
ミッレミリアはそんなドライバーたちの命がけのレース。車が疾走する姿は美しいですが、かなりスリリングでした。
初めてミッレミリアに参戦したデ・ポルターゴ。フェラーリ社のドライバーについて行っていい位置に付けます。他社のドライバーたちが次々と棄権し、フェラーリ社の有利な盤面に。フェラーリ社の誰かが優勝できる。そんな状況ですので、ドライバー以外はほどほどの走りをすれば良いのではないかと言っていました。
それでもレースの優勝しか見ていないドライバーたちには関係のないこと。エンツォもペースを落とせなどとは言いません。
調子を上げていたデ・ポルターゴは途中の休憩で前輪のタイヤ交換をせずに出発します。
そしてまっすぐな道をひたすらゴールに向けて走ります。
ですが、タイヤが破裂し、車が道路を飛び出してしまいます。そして子ども4人を含む9人の観衆が死亡するという悲惨な事故で命を落とすのです。ミッレミリアはこの事故により終わりを迎えます。
そう、ヒーローは現実にはいないのです。
結果としてフェラーリ社はベテランドライバーのタルッフィが1位でゴールし、ミッレミリア優勝を果たすのですが、デ・ポルターゴが見当たらない、ということに皆気づきます。
そして凄惨な事故現場にエンツォが足を運ぶことになるのです。
ではここから主人公のエンツォ・フェラーリにスポットライトを当てていくことにしましょう。
悲惨な事故でエンツォはフェラーリ社としての責任を問われることになります。レースではフェラーリ社が優勝したにも関わらず、誰も手放しでは喜べません。
会社の外に出ればバッシングの嵐です。
あくまで史実を元にした話であるというリアリティが胸に迫るシーンでした。
この映画では、あまり登場人物の感情というか内面にスポットが当たっている描写がなくて、起こったことが淡々と映像として流れていく感じでした。その辺りはあくまでも事実をそのまま描いたんだなという印象です。
なぜ、エンツォが他人と壁を作るようになったのか。なぜその言動を取ったのかという説明的な描写はほとんどありません。
誰もがいろんな感情を抱えて溢れ出しそうなのを抑えているように感じました。
まず、エンツォは全くといっていいほど笑いません。サングラスをかけて表情を見られることを避けているよう。フェラーリ社の社長としての意地とプライド。かつては妻へ、亡くなった息子へ、そして愛人とその息子へと向けられる慈愛。さまざまな感情を胸に秘めている表情に引き込まれました。
さらに印象的なのはラウラ。
終始自分の中に渦巻く感情の嵐と戦っているような雰囲気が伝わってきます。不倫のことを知り、不倫相手の家を見に行ってしまったり。そんなことをすると傷つくのは自分なのにね。そんなのわかってるけど、やってしまうよね。と思ったり。なんだか途中からいじらしく見えてきたりもしました。
唯一エンツォの内面や過去が描かれるのがオペラのシーンです。
私の記憶が間違ってないならエンツォが観ていたオペラは『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』だったはず。
日本では椿姫とされているけれど、原題”ラ・トラヴィアータ”の意味は「道を踏み外した女」となります。
ラウラは夫が娼婦のところに通っていたと思っていたようですが、エンツォが会っていたのは愛人であるリナ。12年前でなければ既婚の男性と愛人関係を結ぶことはなかった、というようなことを言っていたリナと重なるところがあります。
そして道と言えば車が走るうえで欠かせないもの。決められたコースを走るカーレースにおいてはとても重要なものです。そしてミッレミリアの最後、デ・ポルターゴがの乗る車が道を外れて事故を起こすことを暗示していたのかも?と気づいて後から鳥肌が立ちました。
オペラでは歌によって感情を表現してストーリーを進めていきます。劇中ではデュエット。恋が実って幸せを享受する歓びに溢れた歌声が響いています。
そこでかつてのラウラとエンツォの回想が流れます。
明るく陽気でラウラの顔も晴れやかで、子どものディーノも笑っていて、みな幸せそうなんです。
でも、オペラ椿姫は悲劇です。幸せな時期は長くは続きません。エンツォとラウラはずっと今のような冷え切った関係だったのではなく、だんだんと夫婦関係が破綻していき、エンツォも心を閉ざしていったことがうかがえるシーンでした。
と、まあ椿姫によせて考えてみましたが、これでオペラのタイトルが違ったときは鼻で笑ってください。
エンツォはコメンダトーレとして、夫として、父として、様々な決断を迫られている姿が心に残りました。
そしてどの問題に対しても苦悩します。
のちにF1の帝王とまで呼ばれるようになろうと、エンツォはあくまでひとりの人間。人と人が関わると自分の思うようにいかないことは山ほどあります。
そういうエンツォの苦悩をこの映画では描きたかったのかなと思ったりもしました。
あと、この映画ではさまざまなモチーフが繰り返し出てきます。
まずは若いドライバーと美しい女性。
序盤でガールフレンドを連れていた若いドライバーがサーキット場で事故を起こしました。
そして代わりにドライバーとなったのはデ・ポルターゴ。彼が女優のガールフレンドを連れてきた瞬間、私のなかでもしかしたらデ・ポルターゴもとんでもない事故に遭うんじゃないかと嫌な予感が頭をよぎりました。
そしてレースの前に遺書を書くシーン。もうここでデ・ポルターゴの死を確信してしまいました。
そして兄弟、というモチーフも繰り返し出てきます。
エンツォには兄がいて、戦争で死んでしまっている。しかも彼の母は死んだのが兄ではなく弟のエンツォなら良かったと言うようなことを言います。
エンツォの子供は2人、妻ラウラとの子どもであるディーノ。そして愛人リナとの子どもであるピエロです。ここでも兄のディーノが死んでいる。
ディーノの母であるラウラは同じように死んだのが兄ディーノではなく愛人との間の子どもの弟が……と考えたかもしれないことは想像に難くありません。
そして、衝撃的なミッレミリアの事故のシーン。ここでも兄弟がレースを見ていたけど、兄だけが死んでいる。
この兄弟のモチーフ、しかも兄だけが死ぬということが繰り返されているることにぞくっとしました。
最後、これだけは言いたいことがあります。それは、ラウラがとてもかっこよかったということです。
映画の終盤、悲惨な事故によりフェラーリ社は猛烈なバッシングを受けます。エンツォが対応に追われるなか、ラウラが小切手を現金化してしまいます。
ラウラが愛想を尽かして出ていくのかと思いきや現金化したお金で、マスコミへの口止め料にするように進言するのです。
思わぬ話にエンツォは何か条件はあるのかと問います。ラウラの答えはシンプルでした。
“No condition.”
条件はつけない。でも、願いはある。
そこでラウラは自分が死ぬまではよその子どもにフェラーリを名乗らせないことを願いました。
フェラーリという会社で夫婦はつながっていて、ラウラもフェラーリ社のことを思って行動したことがよくわかるシーンです。
エンツォに共感できるところがなかったために、ラウラに寄った視点で映画を観ていた私は、最後のラウラの言葉に少し胸がすく思いがしました。
強い女は美しいです。
最後に
記憶が薄れないうちに書き殴った感じになりましたが、思ったことを残せて満足です。
観るのを迷っている方がいらっしゃるのであればぜひ映画館でご覧になってください。
それではまた。